もっと知りたい時計の話 Vol.47

さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。

さまざまな競技のトップアスリートと呼ばれる人たちはみな、自分たちのフィールドで奇跡としか思えない素晴らしいプレーを見せてくれます。しかもほんの一瞬、1秒間にも満たない短い時間の中で。なぜあの人たちは、あんなことができるのだろう? あなたはそう思ったことはありませんか。今回はそんな素晴らしいプレーの背景にある、トップアスリートの“研ぎ澄まされた時間感覚”の話です。

トップアスリートの中でもトップクラスの“研ぎ澄まされた時間感覚”を持っているのが、最高時速がコースによっては時速300kmを超える世界最高峰の自動車レース、Formula 1(フォーミュラー・ワン)や、その電気自動車版ともいえるFormula E(フォーミュラー・イー)、アメリカのインディカーレース、「ルマン24時間」に代表される世界最高峰のスポーツカーレースに参戦しているレーシングドライバーたち。そして彼らは、チームスポンサーである時計メーカーのクロノグラフを身に着けています。いつも1/100秒、ときに1/1000秒の速さを競う彼らには、経過時間が測れるクロノグラフがぴったりです。

映像配信サービスやユーチューブなどでレース中継をご覧になった方ならご存知でしょうが、マシンにトランシーバーやテレメトリー(遠隔測定)システムの装着が義務付けられていることが多い現在のこうしたレースでは、クルマのスピードはもちろんドライバーの細かな操作に至るまで彼らの「走り」すべてがモニターされていて、ドライバーはチームスタッフと常にコミュニケーションを取りながら走っています。

中でも“研ぎ澄まされた時間感覚”を持つトップドライバーたちはみな、自分自身の感覚だけで1/100秒単位の時間差がわかる人たちです。また、前のクルマがクラッシュしたときにステアリングを切って瞬間的に避けるなど、ふつうの人なら絶対に避けられない過酷な状況、危機を回避する判断と行動を披露してくれます。


現在、世界最高のレーシングドライバーといえば、オラクル・レッドブル・レーシング所属で2021年、2022年、2023年と3年連続F1でワールドチャンピオンに輝いたマックス・フェルスタッペン(写真中央)。異次元の驚異的なドライビングパフォーマンスを誇る絶対的な存在だ。2023年、通算3連勝を飾ったF1モナコ・グランプリの表彰台にて。

こうしたトップアスリートの“研ぎ澄まされた時間感覚”について語るとき、よく使われるのが、「ゾーン」という言葉です。この言葉はもともと、ハンガリー出身でアメリカの心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー」という言葉と同じ意味で使われます。

ミハイが提唱した「フローな状態」つまり「ゾーンに入った状態」とは、簡単に言えば、人がそのとき行っていることに、自ら完全に集中していて、自信に満ちて幸福な気持ちになっている状態のことです。

この状態になったとき、ひとは「意識と行動が完全に一致する」、つまり思った通りに身体を動かすことができるようになる。さらに、時間の感覚が一変する、いつもよりも鋭敏になって、自分の行動や周囲の状況がまるでスローモーションのように見えるといいます。1秒間がその何倍もの時間に感じられる。そのため、瞬間なのに、心や身体に余裕が持てる。だから無理なく自然に適切な判断や行動ができるといいます。

この「ゾーン」感覚は、トップアスリートならほぼすべての人が経験していることのようです。たとえば、キャリアの中で数百本ものホームランを打ったり、常に高い打率を誇ったり、プロ野球の歴史に名を残す名選手たちの多くが、なぜそんなにバッティングが上手なのか、その理由を聞かれて「ボールが止まって見えるから」と答えています。「ゾーンに入った状態」の彼らには、プロのピッチャーが投げ込んでくる時速130kmものスピードのボールの動きが「止まって」見えているのでしょう。

そしてこうした「ゾーン」感覚になることは、トップアスリートでなくても、災害や事故のときなど危機のとき、その瞬間だけですが、ふつうの人でも経験している人がいます。「まるでスローモーションの映像を観ているように、その瞬間を記憶している」のです。このコラムをお読みの皆さんの中にも、同じような経験をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんね・・・。

ところで、大量の情報を処理できる情報機器といえば、スマートフォンやパソコンです。こうした機器に詳しい方なら、その性能の指標となっているのが、こうした機器の「頭脳」であるCPU(セントラル・プロセッシング・ユニット)のクロック周波数であることをご存知でしょう。クロック周波数は人間にたとえると「頭の回転の速さ」と言えるかもしれません。基本的にこのスピードが高速なほど、情報を処理するスピードは速く、同じ時間でそれだけ大量の情報を処理できるので、情報機器は性能が良いといえます。

最近の脳科学の研究では、人間の脳をこうした情報機器とみなすと、そのクロック周波数は数100Hz(ヘルツ)と言われています。一方、最新のスマートフォンのクロック周波数は数GHz(ギガヘルツ)です。1Gとは10億のことですから、クロック周波数だけで考えると最新の情報機器は人間の1000万倍のスピードで情報処理を行っていることになります。


今、最も高性能なCPUのひとつが、2024年5月7日に発表されたばかりのアップルの「M4」。クロック周波数は非公開だが、前の世代のM3に比べて最大40%も処理速度が高速だと発表されています。

でも人間の脳はクロック周波数が遅くても、最新の情報機器には絶対に不可能な思考や判断を行っています。またおそらく、トップアスリートが「ゾーンに入った」状態のように、ほんの一瞬だけなら、クロック周波数を高速にすることで、時間の感覚を研ぎ澄ますことができるのではないでしょうか。

チャットGPTのようなAI(人工知能)を使ったサービスを誰もが使えるようになっていますが、その「お手本」は人間の脳。そして脳にはまだまだ未知の部分が多いのです。もしかしたら、トップアスリートの“研ぎ澄まされた時間感覚”の謎が、脳科学的に解明されれば、ふつうの人でも必要なときに一瞬でも「ゾーンに入って」高いパフォーマンスを発揮して、危機を回避できるようになるかもしれませんね。