もっと知りたい時計の話 Vol.45

さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。

高級時計といえば、だれもが“時計王国”スイスの時計を思い浮かべます。ではスイスの時計産業はいったいいつ頃から、スイスのどの都市、地域で始まったものなのでしょうか。今回はスイス時計の発祥の地・ジュネーブと、その長い歴史を現地からの写真でご紹介します。

スイスの高級時計財団(FHH)の歴史年表によると、スイスで最初に時計作りが始まったのは1554年頃。1492年頃にイタリア、ドイツ、フランスで初めて機械式時計が製作(発明)されて、それがスイスのジュネーブに伝わったとされます。

ジュネーブは国連などさまざまな国際機関の本部があることで知られていますが、その歴史はとても古く、紀元前44年に「ブルータス、お前もか」という言葉を最期に残してこの世を去った共和制ローマの執行官ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が名付け親と伝えられています。ヨーロッパのほぼ中央に位置するという立地のため、古くから貿易や文化が栄えていました。

またジュネーブは、キリスト教の宗教改革で重要な役割を果たした場所でもあります。1536年にフランスのサヴォイア公国から独立して宗教改革が行われ、ドイツのマルティン・ルターと並んでプロテスタント派の中心人物のジャン・カルヴァン(1509〜1564)がフランスから亡命し、共和政治を行った場所で、プロテスタント派の拠点となった都市としても知られています。

ジュネーブは、それまで金細工師によるジュエリー作りが盛んでしたが、カルヴァンはジュエリーの製作を禁止。金細工師たちは代わりに時計のケースを製作するようになり、1601年にはジュネーブに時計師たちのギルド(職業組合)が早くも結成されています。


ジュネーブ大学内のバスチヨン公園内にある「宗教改革記念碑」。1908年に建設が始まり、1917年に完成しました。中央にある、2人の彫刻家が手掛けた人物のレリーフは宗教改革を説いた4人の偉大な説教者で「ジュネーブのローブ」を着て小さな人民聖書を手に持っています。左から2番目の人物がジャン・カルヴァンです。

そしてジュネーブを「スイスの時計産業の原点にして中心地」にした出来事が、栄華を極めて“太陽王”と呼ばれたフランス国王・ルイ14世による、1685年の「ナントの王令(勅令)の廃止」でした。

廃止された「ナントの王令」は、1562年から続くカトリック派とプロテスタント派の対立から起きた「ユグノー戦争」を終わらせるために、1598年にアンリ4世が出した、フランスにおけるプロテスタント派の信仰を認める王令です。

時計師たちの多くは「労働をポジティブなことだと考える」、フランスでは「ユグノー」と蔑称されたプロテスタント派の人々でした。そしてユグノー戦争が起きると、イギリスやドイツやスイスに逃れていたのです。しかし「ナントの王令」で信仰が認められたことで、逃れる必要はなくなりました。ちなみに「ユグノー」とはフランス語で「乞食野郎」という意味です。一方、カトリック派の蔑称は「パピスト」でした。これは「(教皇の)走狗=言いなりになる奴ら」という意味です。

しかし「ナントの王令」の廃止で、彼らは再びジュネーブや他国に逃れる必要に迫られます。面白いのは「ルイ14世がなぜこの勅令を廃止したのか?」その理由がいまだにハッキリしないことです。当時フランスに残っていたプロテスタント派は、人口のわずか5%程度だったと言われています。それなのになぜルイ14世は彼らを追い出すことにしたのか。一説には「カトリック教会への忠誠心からだ」と言われています。そしてこの廃止はフランスにおける時計作りの衰退、さらにフランスの産業停滞の大きな原因になったと言われます。


ジュネーブの最大のシンボルのひとつがこの「大噴水」。毎秒500リットル の水が140メートルの高さまで噴出されています。2003年以降は昼間なら毎日稼働していて、噴水の近くまで行くこともできますが、風向きによっては服が濡れてしまうのでご注意を。

こうしてフランスと隣接する独立都市のジュネーブは周辺地域も含めて17世紀以降、時計・宝飾産業の中心地となっていったのです。そしてこの伝統は今も多くの時計ブランドに連綿と引き継がれているのです。


モンブラン橋方面から見た、ローヌ通りにあるパテック フィリップの本店。時計好きならぜひ訪れたい時計ブティックのひとつです。