もっと知りたい時計の話Vol.26
さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。
一日の時間の定義や時刻の呼び名が、そしてカレンダーが根本的に変わってしまったとき、人はどうしたのでしょうか。それもある日を境に突然に。
それまで使っていた時計が使えなくなる。そんなことが起きたら、だれだって、大パニックになるはずです。
その、とんでもない出来事が今から約150年前、1972年(明治5年)の12月3日に起こりました。太陰太陽暦(旧暦)からヨーロッパと同じ太陽暦(新暦、グレゴリオ暦)へ変わったのです。明治の改暦です。
明治政府によりこの大変更が予告されたのは約1か月前の明治5年11月9日。そして改暦当日の12月3日がやってきました。この日が明治6年の1月1日になり、それまで「子の刻」と呼ばれていた真夜中が「深夜0時」になり、「辰の刻」が「午前8時」になって…。
しかもこれは、単に時間の呼び名が変わっただけではないのです。改暦では不定時法から定時法への変更も行われました。これが実は、大変な変更なのです。
いま私たちが使っている時間は定時法に基づいています。定時法というのは、一日の長さを等分に分割する時刻制度で、現在は24等分した方法が世界中で使われています。 これに対して、一日を昼と夜に分けてそれぞれを等分するやり方を「不定時法」といいます。
明治の改暦前に使われていた日本の不定時法では、日の出、日の入りの時刻を基準として1日の時間をまず、昼と夜に分けていました。さらに昼と夜を6等分して時刻を決めていたのです。
江戸時代、時報は太鼓や鐘の音で告知され、人々は「八つ時」のように、音の数を時刻そのものと捉えていました。写真は埼玉県川越市の時鐘。川越の最初の時鐘は1627年から1634年の間、設置されたといわれます。現在の時鐘は1894年に再建されたものです。
昼と夜の長さがほぼ同じ春分の日、秋分の日なら、6等分した時間の長さは、昼と夜でほぼ同じになります。でもそれ以外の日は、昼と夜の長さが違いますから、6等分した時間の長さも違ってきます。
厳密にいうと難しいので、思い切ってわかりやすく言ってしまえば、不定時法では、昼と夜では「1時間の長さ」が、日々変わるのです。
日の出と日の入りの時間を主体にして時刻を考える不定時法は、農業が主要な産業である社会にはとてもフィットしているものでした。それで、この不定時法を日本は明治まで数百年間使ってきました。
ところが「殖産興業」を掲げて欧米のような工業国になることを目指していた明治政府にとって、不定時法は「後進国」の象徴ようでもありました。不定時法から定時法への変更は緊急の課題だったのです。
不定時法では1時間の長さが夜と昼で常に変わるのですから、今のような労働時間や生産性の計測、管理もできません。社会を工業化するためには、どうしても定時法への変更が不可避だったのです。
この改暦、不定時法から定時法への変更を発議(進言)したのは、もともとは昌平黌に学んだ開明派の幕臣で、明治維新後は沼津兵学校、陸軍兵学大教授を務め、数学者、地誌学者でもあった塚本明毅(つかもと・あきかた 1833〜1885)でした。
なお、12年後の1884年にはアメリカのワシントンで「国際子午線会議」が開催され、世界の時間が「経度15度ごとに(定時法の)1時間の時差」と定義されます。
告知からわずか1カ月後の急な改暦には、明治政府の財政難が背景にあったという裏話もあります。
実は旧暦では2,3年ごとに、1年が13カ月になる年があります。そしてこの改暦が行われた次の年、明治6年は旧暦のうるう月のある年でした。
改暦を強行したことで明治5年の12月は1日と2日のたった2日間に。また明治6年は改暦したことで12カ月になった。つまり明治政府は約2カ月分のお役人の給料を払わずに済んだのです。
でもこの改暦は人々に大混乱を巻き起こしました。何しろ12月がたったの2日に、つまり大晦日なしにいきなり元旦がやってくるのです。人々にとって年末は、借金を返済する期限であり、また商店にとっては掛け売り(=ツケ払い)の精算をする、大事な時期でした。ところがこの改暦でこれまであった精算・集金の時間が失われてしまったのです。
いちばん有名なトラブルが長屋の家賃の支払い。長屋の家賃は年末に1年分を払うことになっていました。それなのに、年末の12月が2日間になってしまったから、大混乱するのは当然です。
そして、日本独自の和時計は、機械式時計では一定のはずの「てんぷの周期」をあえて変える仕組みにすることで、不定時法に対応した世界でも例のない機械式時計でした。それがこの改暦、定時法の導入で、いきなり使えなくなりました。無用の長物になってしまったのです。
この改暦のことは、今ではほとんど知られていません。でも、暦や時法が私たちの生活にとってどれだけ大事なものなのかを教えてくれる、大事な歴史的事件なのです。