もっと知りたい、時計の話 <Vol.7>
さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。
あなたは「渦巻きを持つ時計」があることをご存知でしょうか? それが、フランス語で「渦巻き」や「つむじ風」を意味する言葉、「トゥールビヨン(Tourbillon)」という複雑機構を備えた「トゥールビヨンウォッチ」です。
トゥールビヨンウォッチの特徴は、「渦巻き」という名前にふさわしく、時計が動いている限り、文字盤やムーブメントの中で「常に回転している円型のメカニズム」トゥールビヨン機構を有することです。
回転しているメカニズムの中心は機械式時計の心臓部です。針の動きを規則正しく動かし、時計の精度を決めるためのメカニズムで、テンプとひげゼンマイ、アンクルとガンギ車で構成される脱進調速機があります。トゥールビヨン機構とは、この脱進調速機全体をカゴ(ケージ)の中に入れ、作動させながら回転させる機構のことです。
脱進調速機は時計の中でもいちばんハイスピードで動く、またいちばん精密で製造・組み立て・調整が難しい部分で、この部分を作動させながら回転させることは、技術的にとても難しいことです。構造も複雑で、しかも腕時計の場合は、直径もわずか1cm前後、重さも全部で1グラム程度。ゆえに、組み立ても調整も困難を極めます。
時計ブランド各社が技術を競い合った結果、トゥールビヨン機構にはシンプルなものから、構造が複雑で、どう動くのか理解が難しいものまでさまざまなタイプがあります。そのため、時計愛好家の間で複雑機構の代表として「憧れのメカニズム」のひとつになっています。
パテック フィリップのトゥールビヨン機構搭載モデル、2020年に発表された「ミニット・リピーター・トゥールビヨン 5303R-001 モデル」。モデル名のようにミニット・リピーター(ミニッツリピーター)機構もあわせ持ちます。中央右側奥がトゥールビヨン機構で、ケース裏に搭載されています。
ところで、このトゥールビヨン機構は、誰が何のために、いつ頃開発したものなのでしょうか? またどのように動作するのでしょうか?
この機構の発明者は、没後ほぼ200年が経過した今も“時計史上最高の天才時計師”と讃えられるアブラアン−ルイ・ブレゲ(1747〜1823)です。フランスで彼の特許が認められたのは1801年6月26日ですが、発明されたのはおそらく1775年前後と言われています。
ブレゲがこの複雑機構を開発した目的は時計の精度を改善、向上すること。具体的には地球の重力の影響で起きる精度の劣化、「姿勢差」と呼ばれる時間の進み遅れを減らすことです。
ブレゲより少し前の時代、イギリスの天才物理学者・数学者・天文学者であり、自然哲学者、神学者のアイザック・ニュートン(1643〜1727)が確立したニュートン力学は「この宇宙ではあらゆる物体の間には、物体の質量の積に比例し、物体間の距離の逆二乗の引力が働く」という法則、いわゆる万有引力の法則を発見しました。
重力は人でもモノでも、地球上にあるものにあるすべてのものに働く万有引力のひとつ。つまり地球の中心に向かって引き寄せられる力です。実際、私たちも日々目撃し、実感している力です。
そして時計の「姿勢差」とは、この重力が脱進調速機全体に及ぼす、地球の中心に向かって引っ張る力が原因で起きる精度の劣化。具体的には地球の中心に対する脱進調速機の「姿勢」、つまり地球の中心に対する位置の違いによって起きる時計の「進み遅れ」のことです。
今も姿勢差は、時計の精度を評価する際にいちばん大事なチェック項目のひとつ。そして時計=懐中時計だったブレゲの時代、姿勢差は高い精度を追求する時計師にとって、腕時計以上に大きな問題でした。なぜなら懐中時計は、衣服のポケットの中にひとつの姿勢で固定された状態で使われることが多く、それだけに姿勢差が精度に大きく影響したからです。
そこで天才ブレゲは、脱進調速機全体をカゴ(ケージ)に入れて、ケージを主ゼンマイの力で強制的に常に回転させる、つまり時計の位置が常に変わるのと同じ状況を作り出すことで「姿勢差を平均化して精度を向上させる」アイデアを思いつきました。このアイデアを具現化したのがトゥールビヨン機構です。
ただ特許は認められたものの製品化は難しく、ブレゲが実験作を完成させたのは4年後の1805年。さらにその生涯でブレゲ自身が製作し完成させたトゥールビヨン懐中時計はわずか35個でした。それでもトゥールビヨン機構を備えたトゥールビヨン懐中時計は、顧客であるヨーロッパの王侯貴族の間で大評判になりました。
しかし、高い精度を追求して生まれたこの機構を搭載した腕時計が初めて開発されたのはブレゲの実験作から100年以上も後の1930年代になってからで、時計の精度を競うクロノメーターコンクールで常にトップの成績を争っていたオメガは1947年に、また名門パテック フィリップも、高い精度を実現するためにトゥールビヨン機構を組み込んだ腕時計を1948年に製作しています。ところが、精度の向上は期待したほどではなかったため、この機構は事実上「お蔵入り」になりました。(前回のコラムVol.6でご紹介した「テンプの振動数を高める」方法の方が、時計の精度を上げる上ではるかに有効だったからです)
トゥールビヨン機構が再び時計界で話題になったのは1983年。1970年代から「ブレゲ」ブランドの復活に取り組んでいたフランスの宝飾ブランド・ショーメが、時計師ダニエル・ロートの手で初のトゥールビヨン腕時計を発表したときからです。
文字盤の中で常にグルグルと回転している、動きのダイナミックなトゥールビヨン機構は視覚的なインパクトも大きく、人目を惹くもの。そのため1980年代から1990年代に始まった「機械式時計ブーム」を象徴するメカニズムとして有名になり、時計ブランド各社は競ってトゥールビヨン機構を備えた腕時計を製作・発売します。
1990年代後半はトゥールビヨンモデルを発売していることが一流の時計ブランドの「条件」でした。そのためスイスのバーゼルで毎年春に行われていた世界最大の時計宝飾展示会・バーゼルフェアは一時「トゥールビヨン祭り」の様相となります。そして当時、銀座の高級クラブのホステスさんたちも「トゥールビヨン」という名前を知っていました。それが来店するお客さんが着けている高価な時計の代名詞だったからです。
「トゥールビヨン機構は、本当に精度向上に有効なのでしょうか?」この質問に、スイスを代表する時計ブランドの技術部門でトップを務めていた日本人の時計技術者が答えています。 「トゥールビヨン機構、それも腕時計サイズのものは技術的に設計も製作も難しく、1950年代前後に製作されたものは製造や調整に技術的な限界があり、実際の精度向上に役立たなかったと思います。でも現代のトゥールビヨン機構はきちんと動作して時計の精度を上げてくれます」と。
機械式時計の心臓部である脱進調速機を常に回転させるトゥールビヨン機構は、より高い精度を求めてきた古今東西の時計師、時計技術者たちの叡智の結晶です。ですからあなたも一度、店頭でじっくりと眺めてみてはいかがでしょう。
2022年にグランドセイコーから登場した「グランドセイコー Kodo コンスタントフォース・トゥールビヨン」は、同軸のコンスタントフォース機構で、重力の影響を軽減するトゥールビヨン機構に均等なエネルギーを供給し、より安定した精度を実現したトゥールビヨンモデル。
トゥールビヨン機構は今も時計技術者たちの情熱、挑戦の対象で、毎年新しいトゥールビヨン機構を搭載したモデルが開発・発表されています。ひとつひとつに「物語」があるので、それはまた別の機会にご紹介したいと思います。