もっと知りたい時計の話 Vol.98

さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史、時計が測る時間、この世界の時間などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。

世界には「高級時計の聖地」と呼ばれる場所、生産地がいくつかあります。時計は農作物ではありませんが、実は時計作りには「美しい自然」が欠かせません。今回は時計作りと自然の関係についての話です。

時計作りに最適なのは、「1年間を通じていつも涼しくて、空気がきれいで、きれいな水が豊富にある」場所です。そして、どの国でもそのような場所が時計作りの中心地になっています。ではいったいどんな理由でこの3つの条件が求められるのでしょうか。

まず「涼しい環境」が時計作りに最適な理由。それは涼しい場所は基本的に空気が乾いていて、金属製の時計パーツを錆びさせる最大の敵、湿気が少ないからです。今のような完全空調設備、つまりエアコンが無かった時代に、先人たちはそんな場所を探し、そこで時計作りを始めたのです。また、涼しい場所は金属の熱膨張が少なく、部品加工の際の歪みも少なくて、精度が高い部品作りに向いています。

続いて「きれいな空気」が時計作りに必要な理由。それはチリやホコリが時計を組み立てる際の「天敵」だからです。たとえ目に見えないほど小さいものでも、時計のケースの内部に入ったチリやホコリは、微小な歯車の歯に挟まる、軸受に注された潤滑油に取り込まれてその機能を阻害するなど、「止まり」などの故障の原因になります。昔は空気中のチリやホコリが除去できる技術、つまりクリーンルームなど作れませんでした。だからもともと、チリやホコリが少ない場所が選ばれたのです。

さらに「きれいで豊富な水」が必要な理由。それは歯車やバネなどの微小で精密な金属部品を製造した後に洗浄するとき、不純物が限りなくゼロに近い水質のきれいな水が大量に必要だからです。洗浄水の中に不純物が多いときれいに洗浄できません。最悪の場合、部品の金属が不純物と反応して部品がダメージを受けてしまいます。だからできるだけ不純物の少ない水、具体的には、山岳地域にある湧き水や雪解け水が最適です。

そして、この3つの条件をすべて満たす場所。それが周囲を山に囲まれた高原や盆地なのです。18世紀に時計産業が勃興し現在では“複雑時計の谷”として有名なスイスのジュウ渓谷一帯。ドイツのザクセン州、エルツ山地の山間の小村・グラスヒュッテ。そして日本で“東洋のスイス”とも呼ばれる長野県の諏訪市や塩尻市、伊那市や岩手県の雫石町。山形県の東根市など。


ジュウ渓谷はスイス・ジュネーブの北東、スイス・フランス国境の山岳地帯にあり、ジュラ山脈の中で最大の面積を誇る美しい湖・ジュウ湖で有名です。湖では夏は爽やかな風が吹くためウィンドサーフィンやセーリングや、湖畔のハイキングが人気です。冬に湖全体が凍ると「ヨーロッパ最大級の天然スケートリンク」が出現します。

こうした場所は、厳しい自然環境です。でも、負けずに生きてきた、時計作りにぴったりの人たちが住んでいました。時計作りはルーペや顕微鏡を覗きながら、大きさが数ミリに満たない微小で精密な歯車やバネやネジなどの部品を、ピンセットやマイクロドライバーを使って順序良く、しかも急がず焦らず確実にていねいに組み上げていく作業です。厳しい自然環境の中で農業や林業を営んできた人たちは、実はそんな地道な作業に向いていたのです。

“複雑時計の谷”として有名なスイス・ジュウ渓谷での時計作りは、農業ができない厳冬期の「農家の内職」として始まりました。やがて、時計作りに最適な環境と人材を求めてジュネーブの老舗・名門時計ブランドが工房を開設し、またその下請けとなるムーブメントなど時計部品の製造工場が続々と誕生しました。やがて、時計師を養成するための時計学校も建てられて、時計作りには最適の場所として世界に知られることになります。そして1990年代の機械式時計ブームの中でジュウ渓谷は、時計ファンなら一度は訪れたい“時計作りの聖地”になったのです。


左:1901年に創立され、今年2026年に125周年を迎えた「ヴァレ・ド・ジュウ時計学校(エコール・テクニーク)」。右:時計博物館「エスパス・オロロジェ」。この地域の時計作りの歴史を知ることができます。

「ここは本当に時計作りに向いています。疲れたときには窓の外を眺めます。すると、木々の緑や湖水など、美しい景色が疲れを癒してくれます」 筆者が先日訪れたジュウ渓谷の名門メーカーの複雑時計工房で活躍する日本人の時計師さんはそう話してくれました。高級時計はそんな「美しい自然」が育むものなのです。