もっと知りたい時計の話 Vol.91

さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史、時計が測る時間、この世界の時間などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。

あなたは時計の針を5分間や10分間ほど、わざと進めたりしたことがありますか。また今、あなたの身近にそんな人はいますか。昔から電車やバスで通勤・通学している人、特に遠距離で行っている人の中には、乗り遅れによる遅刻を防ぐために、時計の時刻をわざと進めている人がいました。

そして、約束の時間を守るために昔から推奨されてきた習慣が「5分前行動」です。何かを始めるとき、すぐにその行動ができるように先回りして準備しておく。そうすれば慌てることなく滞りなく行える。そして約束の時間を守ることができる。小中高等学校の生活指導や社会人一年生への社員教育でも、これが「学校内のルール」やビジネスマナーという形で普及し、児童生徒や社会人の一種の常識のようになっているのは皆さまご存知の通りです。

ではこの「5分前行動」というタイムマネジメントの習慣、行動規範が日本で始まったのはいつなのでしょうか。それは今から約120年あまり前の日露戦争当時。旧・大日本帝国海軍の教育がルーツだとされています。そしてこの行動規範は、当時の海軍を指導した大英帝国海軍、つまりイギリスの海軍から伝授されたものだそうです。なお当時の海軍では「5分前行動」とは言わず「5分前精神」という言葉が使われていました。

ところで、なぜ10分前や15分前ではなくて「5分前」なのでしょうか? 旧海軍では、埠頭と船の間の乗り降りに使うタラップが設置されているのは出港の5分前まで。そのため、乗務員は必ず5分前には帰艦しなければならないという厳しい規則がありました。正当な理由がないのにこの「5分前」に遅れて船に乗れなかったら、海軍刑法では敵前逃亡と同等と同じ扱いとなり「死刑」に処されてしまうこともありました。そしてこの「出港5分前」ルールは、今も海上自衛隊に伝統として受け継がれているそうです。


乗り遅れると大変なことになるのが飛行機。それも国際線です。搭乗開始予定時刻の「5分前」には必ず搭乗口で待機したいもの。

ただ「5分前行動」をするためには、その場所に時刻を確認できる時計があることが大前提。でも兵士たちにこの習慣が教育され始めた当時、時計を持っていたのは将校、士官クラスだけ。まだ腕時計はなく懐中時計の時代でした。腕時計の普及はそれよりもずっと後、第二次世界大戦後の1960年代になってから。つまりこれは「心構え」だったのです。おそらくそのために「行動」ではなくて「精神」という言葉が使われたのでしょう。

第二次世界大戦後、この習慣は時計の普及と並行して学校や企業で基本的な行動マナーとして教えられ、老弱男女あらゆる人々の間に常識として広まっていきます。そして日本の敗戦からの奇跡的な復興と、続く高度経済成長の文化的背景となったのは否定できないことでしょう。世界的にも「日本人は時間を守る人たちだ」と評価されています。また、名前は付いていませんが、時間に厳格なことで知られるドイツ、スイス、オーストリアにも同様の習慣があります。

日露戦争当時に始まり、日本社会の発展の原動力として定着してきたこの「5分前行動」。ですが、残念ながら良いことばかりではありません。たとえばそのひとつが「会社の就業時間の実質的な延長になってしまうケース」です。もし「5分前行動」をすることが会社や上司からの圧力で実質的に「義務付けられた」状態で退社時間はそのままなら、それは事実上の就業時間の延長になってしまいます。もし当たり前になっていたら、それは労働法違反です。また、就業規則にないこうした習慣の強制は「パワーハラスメント」ですから許されることではありません。

一部の企業の中には、就業時間の「5分前」どころか、「15分前」の出社を事実上強制していたところがあり、会社と従業員の間で裁判になりました。そして「事実上の強制は労働法違反だ」という判断から「その15分間の賃金も支払いなさい」という判決が出ています。

世界を見渡してみると、ビジネスのアポイントにおける「時間厳守」は、基本的には「5分前」ではなくて約束の時間ちょうどが主流になりつつあります。また最近ではスマートフォンやスマートウォッチのように、「時間を守る」お手伝いをしてくれるデジタルデバイスが広く普及しています。こうした機器の「通知(リマインダー)機能」を使えば、「今日はこれからこんな予定が入っています」「〇〇に行くなら、もうすぐ出かける時間です」などと何度も教えてくれます。約束の時間を守るためにはとても役立つものですが、こうしたデジタルデバイスの活用で、「5分前行動」という習慣はアップデートされたかたちでやがて廃れていくのかもしれませんね。


乗り逃してもすぐ次の電車が来るのは、東京、大阪、名古屋など日本の大都市だけ。それでも、乗る予定だった電車を乗り逃すのはつらいものですね。