もっと知りたい時計の話 Vol.84

さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史、時計が測る時間、この世界の時間などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。

以前のコラムでもご紹介した「時計界のアカデミー賞」、ジュネーブ・ウォッチ・グランプリ(略称GPHG)の2025年の受賞式が11月13日にジュネーブで行われ、20部門の受賞作が発表されました。グランプリの最高賞である「金の針賞」を受賞したのは、時計の歴史の中でも燦然と輝く偉大な時計ブランドのひとつ、今年創立250周年を迎えた「ブレゲ」の「クラシック スースクリプション2025」でした。

今回はこのブランドの創設者で、没後200年以上も経った今も「時計史上最高の天才時計師」「時計の歴史を200年早めた人」と讃えられる、時計好きならぜひ知っておきたい伝説の偉人、アブラアン-ルイ・ブレゲ(1747年生〜1823年没)の生涯とその功績についてご紹介しましょう。

今も時計産業の中心地として栄えるスイス・ヌーシャテル地方に生まれたブレゲは父の死、母の再婚をきっかけに15歳の時フランスの首都パリに移住。時計師に弟子入りし、すぐに頭角を現しました。その才能を見込まれ、大学の数学教授の講義や指導も受けて修業を積み、1775年、32歳で結婚を機にパリのセーヌ川の中洲・シテ島に自身の時計工房を開きます。

機械式時計は当時、まだ王侯貴族や富豪だけが手にすることができる高価な最先端の精密機械。時計師は現代に例えれば、最先端の機器を製作する研究者であり、開発者、技術者でした。そんなブレゲの顧客になったのは、機械好きや数学好きで知られるフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを筆頭とするフランス宮廷の貴族や富豪たち。彼らは競ってブレゲに時計を注文しました。残された顧客リストには、当時のパリの名士たちの名前が残されています。


左)アブラアン-ルイ・ブレゲの肖像画。中)受賞作の原型となった懐中時計「スースクリプション No.3424」。1797年から数年間製作され、現在もかなりの数が残されています。左)ブレゲが描いたスースクプション」のアイデアスケッチ。

機械式時計技術におけるブレゲの発明は、多過ぎてこの稿ではとても紹介できません。ただその中でも最もよく知られているのが複雑時計機構の代表のひとつ、地球の重力による精度の劣化を防ぐトゥールビヨンでしょう。それ以外にも、「ペルペチュエル」と呼ばれる懐中時計用の自動巻き機構や、文字盤に手で触ることで時間が読み取れる「モントレ・ア・タクト(触覚時計)」、また、ナポレオンが愛用したことでも知られる、懐中時計を置時計にセットすると、自動的に時刻合わせやぜんまいの巻き上げまで行うシンパティッククロック(同調時計)も彼の発明のひとつです。さらに発明の中には、現在も最先端の機械式時計に採用されている脱進調速機に使われる「ブレゲひげぜんまい」のような技術もあります。

ブレゲが自身の工房を始めた当時のフランスは、太陽王と讃えられ絶大な権力を誇ったルイ14世に象徴されるブルボン王朝が長年の戦争で財政破綻の状態になって行き詰まり、ルイ15世が逝去してルイ16世が即位したばかり。民衆の間で重税と身分制に対する不満から1789年にフランス革命が起きる直前でした。池田理代子さんの傑作歴史マンガ『ベルサイユのばら』の時代です。2016年に発表された池田理代子原作「ベルサイユのばら」13巻のエピソード8には、アブラアン-ルイ・ブレゲとマリー・アントワネットの親交と、ブレゲがアントワネットのために製作した複雑懐中時計の最高傑作「No.160」が登場します。

1792年にルイ16世が、翌1793年に王妃マリー・アントワネットがギロチンで処刑されるなど、革命後の混乱で政敵に対する暗殺が横行する「恐怖政治」が行われていたこの時代、皇帝や王妃とも親しかったブレゲは命の危機にも見舞われます。革命派の「処刑リスト」に載せられてしまったのです。ブレゲはこのことを友人だった革命派の政治家ジャン-ポール・マラから知らされ、彼の機転で危機一髪、故郷のスイス・ヌーシャテルに逃れて生き延びました。しかし、マラ自身は政敵の手で入浴中に惨殺されてしまいます。ブレゲはそんな「革命の時代」を見事に生き抜いた人なのです。

ブレゲは時計のデザイナー、ビジネスマンとしても天才でした。視認性に優れた、現在も広く使われる独特なアラビア数字「ブレゲ数字」や先端に穴の空いた丸が付いた「ブレゲ針」も彼のデザインですし、専用の旋盤で金属の表面に幾何学的なパターンを刻むギョーシェ加工を使った文字盤もブレゲが考案したもの。また注文時に代金の半額を払い、完成・納品のときに残りの半額を支払うという画期的な販売システムも考案しました。GPHGの最高賞に輝いた「クラシック スースクリプション 2025」は、このシステムで販売された1本針の懐中時計「スースクリプション」(フランス語で“予約申し込み”を意味する)の腕時計版。ブレゲのブランド誕生250周年記念モデルのひとつです。

イギリスの科学ライターで弁護士でもあったサー・デヴィッド・サロモンズの書いた伝記によると、ブレゲは親切でユーモアのある魅力的な人でした。職人が持ってきた仕事の請求書の金額の末尾が「0」だった場合、満足した仕事であれば、その「0」に「9」のような尾を書き足して「9」にし、職人により多くの賃金を支払うことがあったといいます。そして若い弟子たちを「失敗しても気にするな」といつも励ましていたといいます。

そしてブレゲの子孫たちも歴史に残る数々の業績を残してきました。息子で時計師だった2代目のアントワーヌ-ルイ・ブレゲはブランドの名声を世界的な不動のものとした人。その息子で3代目のルイ-クレマン・ブレゲは、時計師であると同時に技術者としてフランスの最初期の電気通信事業に大きな貢献をした人物です。さらに5代目のルイ-シャルル・ブレゲは自ら航空機を開発したパイロットで、現在のダッソー社の起源のひとつである航空機メーカー「ブレゲ」や、航空会社エールフランスの設立に関わるなどフランス航空界に偉大な足跡を残しました。そして7代目のエマニュエル・ブレゲ氏は科学史家としてアブラアン-ルイ・ブレゲの業績についての著作で知られ、現在ブランドの副社長兼歴史遺産部門の責任者を務めています。


左)アブラアン‐ルイ・ブレゲから5代目のルイ‐シャルル・ブレゲ。右)彼が開発した傑作機のひとつ「ブレゲ19」(1922年初飛行。1924年から本格生産)。偵察機、軽爆撃機として開発され、数々の長距離飛行記録も樹立しています。

アブラアン-ルイ・ブレゲの名はこれからも「時計史上最高の天才時計師」として、彼の数々の発明と共に永遠に語り継がれていくことでしょう。