もっと知りたい時計の話 Vol.61

さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。

Vol.59「スマホの『地図アプリ』を支える「原子時計」でもご紹介したように、私たちの日常生活は「ナノ秒=10億分の1杪」の超高精度な時計に支えられています。実際、国際金融システムや運輸システム、情報通信システムでは、ナノ秒単位の進み遅れが、実際に重大なトラブルを引き起こしています。つまりわたしたちは「昔よりケタ違いの時間厳守が求められる世界」に生きているのです。

もちろん、そんな正確さが求められるのは特殊な世界であり、少数の人々です。でも、こうした世界が背景にあるからでしょうか、最近、よく使われるようになった言葉のひとつに「タイパ」があります。

これは「タイムパフォーマンス」の略語。あることに使った時間に対して、どれだけの成果や満足感が得られたのかを表す指標のようなもの。「コスパ(=コストパフォーマンス)」という言葉が、費用対効果を表すように、「タイパ」は時間対効果を表す言葉といえるでしょう。

この言葉は2022年の「流行語大賞」に選ばれたことで、ビジネス用語として定着しました。そして、ビジネス指南書の多くが「コスパとタイパの追求」を、ビジネスの基本として推奨しています。

では「コスパとタイパの追求」とは、実際にはどのようなことでしょうか。そのいちばん身近な具体例のひとつが、映像コンテンツの「倍速視聴」や、YouTubeで最近目立つ、ニーズが高まっている「ショート動画」や「切り抜き動画」でしょう。

「倍速視聴」とは、ネット配信されているテレビ番組や映画などの映像コンテンツを、本来のスピードではなく1.5倍速や2倍速で視聴して時間を節約するということ。「ショート動画」や「切り抜き動画」は、文章ではなく動画を要約したもの。最近では「ビデオ要約」機能といって、動画ファイルをAI(人工知能)が自動的に要約した映像やポッドキャスト(音声配信用のコンテンツ)を作ってくれるサービスも登場しています。

その良し悪しはともかく「映像まで要約して観る」というライフスタイルは、いま10代〜20代では、当たり前。毎日、数え切れないほど発信されるコンテンツの中から、自分にとっての“宝石”を見つけるための「コスパとタイパに優れた方法」なのかもしれません。

その一方で、「タイパとコスパ」とは無縁の、真逆ともいえるモノやコトの人気が、世代を問わずに高まっています。そのひとつが1970〜1990年代に生産されていた一部の国産自動車の意外ともいえる「中古車市場」での人気、いわゆる“旧車”ブームでしょう。当時のクルマを手に入れて乗ることが、子どもの頃の憧れだった当時のクルマに乗りたいという大人世代ばかりか、当時、まだ生まれていなかった若者にまで流行しています。こうした人気に応えようと一部の自動車メーカーは、昔から大事にしてきた愛車に乗り続けたいというユーザーのために、公式レストアサービスの事業化に乗り出しています。


マツダは、ライトウエイトスポーツカーのブームを巻き起こした「ロードスター」の初代モデルNA系(1989〜1998年生産)のレストアサービスを行っています。

旧車より現行車の方が、クルマとしての性能や機能は圧倒的に優れています。つまり「コスパとタイパ」を考えれば、現行車の方が間違いなく「賢い選択」です。旧車は今のハイブリッド車や軽自動車と比較すると、燃費も悪いし安全性も低い。壊れたら修理も簡単にはできません。

それでも旧車を選ぶ人たちは「今のクルマにはないワクワクが、楽しさがある」と、旧車の魅力を口を揃えて語ります。「別に速くなくてもいいんです。アクセルを踏み込みエンジンの回転数が高まるにつれて変わるエンジン音。身体全体で感じる音や振動がたまらないんですよ」と、旧車好きの友人はいつもいいます。

でも、そんな体験ができるクルマは今、生産されていませんし、今後作られることもないでしょう。その結果、20年ほど前なら二束三文。状態が良くても買い手も付かなかった一部の国産車が、驚くほど高い値段で売り買いされるという事態も起きています。

1980年代に起きた、ロレックスを中心にしたアンティークウォッチブーム。そして1990年代にスイス、イタリア、日本から始まって世界中に拡大した、機械式を中心にした高級時計ブーム。その歴史と人気の理由を振り返ってみると、その想いはいまの旧車ブームの人たちと同じです。

「コスパ、タイパは確かに大事。でも、それがすべてじゃない。コスパ、タイパでは語れない、素敵な別の世界を大切にしたい」旧車や機械式時計の「人気の背景」には、口には出さないけれど、人々のそんな強い想いを感じます。

コスパ、タイパ最優先なら、機能も数え切れないほど多彩で豊富で、精度も高いスマートフォン、スマートウォッチの方が圧倒的に優れています。でも私たちが腕時計に、特に機械式の腕時計に惹かれる理由。それは、アナログな機械だけが持つ、目で観ることができる物理的な動きや音です。

静かな環境で落ち着いて、機械式時計のムーブメントや針の動きを眺めるとき私たちは、ふだんは意識することができないゆったりした「時の流れ」を感じます。もしかすると、人間のスケールでは測れない壮大な宇宙。その「悠久の時」を感じているのかもしれません。

なぜなら、17世紀に基本的な構造が開発され、400年以上の時を経てもその基本が変わらない“機械の小宇宙”とも表現される機械式時計のムーブメント。実は“小宇宙”という表現には、ちゃんとした理由、裏付けがあります。

なぜなら機械式、クォーツ式を問わず時計という精密機械は、私たちにとっていちばん身近な宇宙、つまり太陽系。その中の太陽と地球の動きで起きる昼夜、季節の移り変わりを機械として再現したものだからです。

クルマとは違い時計の世界ではそんな「コスパ、タイパとは無縁の製品」が、いまも現行品として作り続けられています。しかも身近な価格で。

もしあなたがいま「コスパ、タイパ最優先の世界」にちょっと疲れを、違和感を感じているなら、シンプルな機械式の腕時計を、それもムーブメントの姿や動きを眺めることのできるシースルーバック(ケースの裏側が透明になっている)仕様のものを1本、手に入れてみてはどうでしょう。


TISSOT PRX(ピーアールエックス) パワーマティック 80

そして、ときどき腕から外しケースを裏返して、時刻を表示する文字盤の裏側にある機械式ムーブメントの姿を眺めてみる。クルクルと回転しながらぜんまいを巻く自動巻きローターや、心臓のように休むことなくリズムを刻む脱進調速機の動きを鑑賞する。耳に当てて「カチカチ」というその小さな音を聞いてみる。

そのときあなたは忙しい日常の時間から離れて、心を休めることができると思います。もちろん「ほんの一瞬だけ」かもしれませんが。