もっと知りたい時計の話 Vol.54

さまざまな時計、その素晴らしい機能や仕組み、その時計が生まれた歴史などについて、もっと知って楽しんで頂きたい。 日新堂のそんな想いを込めてお届けするのがこの「もっと知りたい、時計の話」です。

時計は機械の中でも特別な存在です。そして世界の偉人には「時計好き」が少なくありません。その中にはもはや「時計好き」というレベルではなく、時計職人からキャリアをスタートさせた人。時計の分解修理が趣味で、時計を原点に事業を興した人もいます。

前者で有名なのは、日本を代表する世界的な企業・東芝の前進、田中製作所の創業者である田中久重(1799〜1881)や、現代建築の巨匠ル・コルビジェ(1887〜1965)でしょう。“からくり儀右衛門”とも呼ばれ、ぜんまいの力で動く「からくり人形」を多数製作した田中久重。彼が1851年に完成させた「万年時計」は、日本の時計史上最高峰の複雑置き時計で、重要文化財として東京・上野の国立科学博物館に展示されています。またスイスの時計産業の中心地ラ・ショー・ド・フォンに生まれ時計職人を目指していたコルビジェが残した有名な言葉、機能主義的な建築観を象徴する「住宅は人が住むための機械である」の背景には、機械式時計の影響を感じずにはいられません。

そして後者、時計を原点にアメリカを代表する自動車メーカー「フォード・モーター・カンパニー」を創業したのが自動車王のヘンリー・フォード(1963〜1947)です。彼の自伝によれば、農業一家に生まれたフォードは小さな頃から機械の仕組みに興味があって、機械を見つけると何でも分解してみる子どもでした。兄弟のおもちゃを勝手に分解して怒られたり、友だちと水車を作ったりして遊んでいました。そんな彼がもっとも魅了され夢中になった機械のひとつ。それが懐中時計でした。12歳のときヘンリー・フォードは父から懐中時計をプレゼントされたのです。

当時、アメリカの時計産業は優れた品質の懐中時計で世界No.1に君臨していました。機械で効率良く、標準化された高品質な部品を大量に作る体制を確立したことで、アメリカ製の懐中時計は高精度でしかも低価格を実現し、世界を席巻していたのです。

この懐中時計を何十回も分解しては再び組み立てることで、ヘンリー・フォードは時計の修理技術を身に付け、15歳の頃には周囲から時計の修理を頼まれるほどになっていました。16歳のときに家を出てデトロイトで機械工見習いになったフォードは、エンジニアとしてのキャリアをスタートさせます。昼は見習工として働き、夜は行きつけの時計店で時計修理のアルバイトもしていました。そして3年間の見習い期間よりも早く、エンジニアになる資格を得ます。実はこの頃、彼は自分の時計メーカーを立ち上げて、懐中時計の製造と販売を一生の仕事にしようと考えていたようです。


ヘンリー・フォードが13歳のときに学友の時計を初めて修理しました。現在、その時計はミシガン州デトロイトのディアボーンにあるアメリカ最大級の産業博物館「ヘンリー・フォード博物館」に収蔵されています。(写真は同博物館のHPより)


I thought that I could build a serviceable watch for around thirty cents and nearly started in the business. But I did not because I figured out that watches were not universal necessities, and therefore people generally would not buy them. Just how I reached that surprising conclusion I am unable to state. I did not like the ordinary jewelry and watch making work excepting where the job was hard to do 当時の私は、細かい作業が好きで時計に傾倒していたので、夜は宝石店で時計修理の仕事をしていました。その頃、私は 300 個を超える時計を持っていたと思います。そして、30 セント程度で安い値段で修理できるお手頃な価格の時計を作れると考えていて、危うくその仕事を始めるところでした。でも時計は普遍的な必需品ではない、一般の人には必要がないものだから、買ってはもらえない、と思ったので、やめることにしました。どのようにしてこの驚くべき結論に至ったのかは、はっきり覚えてはいません。 『ヘンリー・フォード自伝 -私の人生と仕事-』Kindle 版 19ページより(原文は英語、筆者訳)


フォードのこの決断は大正解でした。2度の起業失敗はあったものの、1903年に自分の自動車会社フォード・モーター・カンパニーを立ち上げた彼は、生産工程を科学的に分析して管理する「科学的管理法」に基づいた、ベルトコンベアーを使った流れ作業による大量生産システムを確立。多くの人が購入できる手頃な価格の乗用車「フォード モデルT(T型フォード)」を1908年に発売。1927年の生産中止まで1500万7033台が生産されたこのクルマで世界を変えて、文字通りの「自動車王」になったのです。


左)25歳の若きヘンリー・フォード。右)左が65歳のヘンリー・フォード。中央は若きフォードを技術者として雇い、また友人でもあった発明王トーマス・アルバ・エジソン。そしてファイアストーンタイヤの創業者ハーベイ・ファイアストーン。1929年2月11日撮影(写真はいずれもWikipediaより)

ただT型フォードの成功は、懐中時計における部品の標準化と機械による高品質で低価格な製品の大量生産という前例からの「学び」なしには、実現不可能だったでしょう。また、この自伝の中でフォードは「私はシンプルな時計の修理は興味が持てなかった」とも述べています。

もし彼が当初の計画通り、自動車ではなく時計で起業していたらどうなっていたでしょうか。もしかしたら、複雑時計ブランドを立ち上げていたかも。でも、自動車のような成功は到底望めなかったに違いありません。なぜなら、20世紀に入るとアメリカの時計産業は「懐中時計から腕時計」への転換がうまく行かず、アメリカの科学的管理法を学んだスイスの時計産業との競争に敗れ、一気に衰退してしまったからです。